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NUMBER
13
TITLE ジョヴァンニの部屋(白水Uブックス)
AUTHOR ジェームズ・ボールドウィン
DATE 2015年4月4日(土) 15:00-18:00
PLACE 珈琲西武
FEE 会場費300円+各自飲み物代
NOTE 終了後に「個室和食居酒屋 淡路島と喰らえ 新宿東口靖国通り店」にて二次会、「ザ・グリフォン 新宿店」で三次会を開催しました。

about the book

パリに遊学中のアメリカ人青年デイヴィッドはふとしたことから同性愛者の世界に踏み込み、イタリアの農村から出てきたジョヴァンニと知りあう。
2人は安アパートで同棲生活を営む。だが、ジョヴァンニは雇い主ともめ事を起こし、職を失い、窮地に陥る。折しもスペイン旅行から帰国したヘラと結婚を決意したデイヴィッドは、ジョヴァンニの元を去り、この生活は一応終わるが、ジョヴァンニへの執着と彼を追いつめた罪の意識にさいなまれ、ヘラとの関係もぎくしゃくする。やがてかくしていたデイヴィッドとの関係に気づいたヘラは去り、ジョヴァンニは元雇い主を殺した罪で断頭台へと向かう。 同性愛を描いて物議をかもした、黒人作家ボールドウィンの代表作。

about the author

ジェイムズ・アーサー・ボールドウィン(James Arthur Baldwin, 1924-1987)
アメリカ合衆国の作家、公民権運動家。
1924年に9人の子供の長子として生まれる。実の父を知らず、母と工場労働者で街頭説教師の継父デイヴィッドの夫婦に育てられるが、デイヴィッドは家では暴君だった。 ブロンクスの高校を卒業するとグリニッジ・ヴィレッジに移住し、文学の修行に勤しみ、年上の黒人作家リチャード・ライトから支援を受ける。1948年ヨーロッパに渡るが、やがてアメリカに戻ったボールドウィンは公民権運動に関わり、キング牧師と共に首都ワシントンD.C.へ行進を行った。 1980年代早くに、マサチューセッツ州西部の大学の教職に就いたが、晩年はヨーロッパやトルコで過ごすことが多かった。1987年、63歳のときにサン=ポール=ド=ヴァンスで食道癌のため死去。 作品に小説『山にのぼりて告げよ』『もう一つの国』『列車はどのくらい前に出たか教えて』、随筆『次は火だ』など。

from the facilitator

若い頃に読んで感動した、自分にとって大事な小説です。もう一度読んでみたいと思いました。

【今回選ばれなかった候補作品】

読書会を終えて

アメリカ人であること、アメリカ的な時間

この小説は、ゲイ、バイセクシャルをめぐる小説であると同時に(あるいは、であるがゆえに)、アイデンティティをめぐる問いが中心に据えられています。
作者ボールドウィンは黒人の作家であり、アメリカにあった時は白人と黒人の対立を鋭く意識していました。しかし、ヨーロッパに渡った彼は、「アメリカ人」であることと、「ヨーロッパ人」であることというより大きな対立を鋭く意識するようになったそうです。
この小説には、そうした意識が強くあらわれています。
では、「アメリカ人であること」とはどんなことでしょうか。

たぶん、ぼくは、アメリカでわれわれがよくいうように、《自己を発見したい》と思ったのだろう。この表現は、なかなか興味ぶかいもので、ぼくの知るかぎりでは、他のどの国民の言語にも行われていないものである。なぜなら、この表現の意味するところは、文字どおりのものでないことはたしかで、どこかが狂っているのではないかという執拗な疑念を、暴露しているからである。(37ページ)

主人公デイヴィッドは故郷アメリカを離れ、自分とは何かを探すためにパリに来ています。アメリカ人だけが「自分探し」や「自己発見」をしているといわれると、違和感を覚えもするのですが、これはこの小説が書かれた1950年代には自分探しなどは、いまほど言われていなかったことは確かでしょう。また、長い歴史のなかで、自分など探さなくても自明で確固たるものとしてある(と、少なくともアメリカ人の作家、主人公には見える)ヨーロッパの人間に対して、アメリカ人は、自分を積極的に探していかないといけないはかない存在であり、また、探すことができる自由な存在だと捉えられているのかもしれません。
登場人物たちは、主人公がとらわれているアメリカ的な時間意識を指摘します。

「わたくしは、時間についての、アメリカ的な考え方は、まったくのナンセンスだと思っています。時間というのは、魚にとっての水のように、まったく自然な、空気のようなものなんです。(…)だれひとりとして、そこからぬけでるものはいない。もし抜け出したりしたら、水をうばわれた魚のように、死んでしまうばかりです。ところで、この時間という水のなかで、どんなことが起こっているか、ごぞんじですか? 大きな魚は小さな魚を食っている。ただそれだけのことなんです。」
(…)
「自分の意志でえらぶ、ですって!」とジョヴァンニはぼくから顔をそむけ、さきほどからぼくたちの会話をずっとぬすみ聞きしていた目に見えない同志にむかって語りかけるように、叫んだ。(…)
「あなたは、しんからのアメリカ人でいらっしゃる。あなたの熱心な信念には、感服のほかありません。(62-63ページ)

時間という動かせない環境のなかで、与えられた運命を甘受して生きていくしかない、というヨーロッパ的な運命論に対して、デイヴィッドは、自分の意志ですべてを変えられるという自由論を主張します。長い歴史を誇るヨーロッパと、それを否定して国を成り立たせた新興国アメリカの自我意識の対立が鮮明にあらわれています。
この自我のあり方は、恋愛についても一貫しています。
ぼくらの出会いについて少し様子をみてみようという態度のデイヴィッド(これは、デイヴィッドの恋人ヘラが、気持ちを確かめるために一人スペインに旅立ったのと同じ態度です)にジョヴァンニは苛立ちます。

「いったい、時間というものに、どんな意味があるんです? どうして、なにをするにも、時間をかけたほうがいいんですか? みんな、いつも、待つ、待つ、待つことが必要だ、といっていますが、いったい、なにを待っているんですか?(68ページ)

恋は一気に落ちるもの、運命のようなものだ、という意識があらわれています。
のちにジョヴァンニとの情事を振り返るデイヴィッドは、次のように吐露しています。

だが、不幸なことには、わが身をつなぎ束縛するものを、恋人を、友人を、つくりだすことは、だれにもできはしないのだ――おのれの親を、つくりだすことができないのと同様に。(9-10ページ)

なぜなら、ぼくは、自分の意志の力や、ある決意をしたらそれをあくまで遂行することのできる自分の能力を、誇りに思うような人間のひとりなのであるーーいや、かつてはそうであった、といったほうがいいだろう。ところで、そのような資質は、たいていの資質がそうであるように、実はあいまいそのものなのである。自分は強力な意志にめぐまれており、自分の運命は自分で支配することができると信じている人間は、自己欺瞞の専門家になることによってのみ、その信念を維持しつづけることができるのだ。かれらの決意は、ほんとうは、決意でもなんでもなくーー(真の決意というものは、ひとを謙虚にするものであり、そういう人は、なにかを決意しても、その決意は、数えきれないほど多くのものに、左右され支配されるものであることを、ちゃんと知っているものだ)ーー巧妙に仕組まれた逃避や幻影であり、自分たちとこの世界を、あるがままの姿とはちがったものにみせかけようと、もくろまれたものなのである。(36ページ)

ここには、悔恨とともに運命論の前に屈したアメリカ人の姿を見ることも、可能かもしれません。

色のある細部

性が主題になっているこの本ですが、文章が上品であり、また露骨な表現も少ないためか、不快になるようなところはありません。
ただし、ところどころ感覚的でするどい描写で、性に関する問題が、ときに笑いを誘うほど鮮烈に描かれています。
つぎは、不毛な一夜のセックスを評した中年男ジャックの言葉。

「その理由はね、そういった関係には、愛情のひとかけらも、それからよろこびも、まったくないからなんだ。たとえていえば、こわれたソケットに、プラグをさしこむようなものなんだ。ふれあいはあるが、接触はない。ふれあうばかりで、接触はまったく起こらず、あかりもつかない。」(101ページ)

見事すぎて笑うしかありません。ちなみに「あかりもつかない」は「no lights」だそうです(笑)。
次は、主人公がジョヴァンニに押し倒される場面。

ぼくの心のなかのすべては、《ノー!》とかんだかく叫んでいたが、体ぜんたいは、《イエス!》とためいきをついていた。(116ページ)

全身がつく「ためいき」、鮮やかに絵が浮かぶ表現です。こうした麗しい細部が随所にちりばめられているために、この物語は、青春の悩みを描いただけではない、「読ませる」作品になっています。
そういう意味で、脇役のオトナたちの言葉も、印象的です。

「きみは、わたしにたいして、非常にずるいことをした。ぜんぜん、フェアじゃなかった。」
 こんどは、ぼくも冷笑的になることができた。「それでは、あなたは、もしぼくがずるくなかったら、もしぼくがフェアな男だったら、ぼくは、その、もっとーー」
「わたしがいってるのは、もしきみがフェアな男だったら、わたしをそんなに軽蔑しはしなかっただろう、ということだ。」
「すみません。しかし、おことばを返すようですが、ぼくは、あなたの生活には、軽蔑すべきものがいっぱいあると考えています。」
「きみの生活についても、同様のことがいえるんじゃないかな。軽蔑すべき人間になる方法は、数えあげていくと、どれほど時間があっても足りないくらい、無数にある。しかし、ほんとうの意味で軽蔑すべき人間になる方法は、ひとつしかない。それは、他人の苦痛を侮蔑することができるようになることだ。(99ページ)

原文にあたってくれた参加者によれば、はじめのジャックの言葉は、
"You have been very unfair to me", he said.  "You have been very dishonest." 
だそうです。
ここで「ずるい」と訳されているdishonestは、どちらかというと「不正直」がより近いでしょうか。
硬直的なこの若者のなかに、自分と同じものがある。そして、若者もそのことを本当は分かっている。でも、それを認めたくない若者に切り返している場面です。卑怯で醜い自分を認める大人の、にがい言葉です。こうした大人のまなざしが、この物語に奥行きを与えています。

故郷、家という主題

自分探しをする作者が仮託された主人公の悩みはやっかいです。

ジョヴァンニは、自分がぼくにたいして不満をもっているということをぼくに知らせたいときには、《きみは、正真正銘のアメリカ人だ》といった。逆にきげんがいいときには、《きみは、ぜんぜんアメリカ人じゃない》といった。そして、そのどちらのばあいにも、彼はぼくの心の深みで、彼のなかには脈打っていないひとつの神経に、打撃をくわえているのだった。ぼくはそのことに憤慨した。アメリカ人と呼ばれることに憤慨した(そして、そのように憤慨することに憤慨した)。なぜなら、それだとぼくは、たとえそれがなんであれ、それ以上のなにものでもなくなるような気がしたからである。同時にぼくは、アメリカ人ではないといわれることにも憤慨した。なぜなら、それだとぼくは、ぜんぜんなにものでもなくなるような気がしたからである。(154ページ)

アメリカ人と規定されてもいや、アメリカ人でないと規定されてもつらい、という行き場の無いアイデンティティの悩みがあります。デイヴィッドの抱えるアメリカへの思いは非常に屈折しています。

根無し草のように世界を漂泊する放浪者、定着することを知らぬ冒険家、としての自分を、ぼくはそのとき痛切に意識した。 (113ページ)

一方で、幼子を亡くした絶望から故郷を棄てたジョヴァンニも、漂泊者です。

「…自分の故郷へいってみたくはないのかい?」
(中略)
 彼は微笑した。「きみが故郷にかえるとする、するときみは、故郷がもはや故郷ではなくなっていることに気がつく。それで、きみは、ほんとうに当惑してしまって、おもしろくなくなってしまうんだ。ところが、こちらにいるかぎりは、いつでも、自分はいつか故郷へかえろう、と考えていられるからね。」(中略)
「…故郷というのは、そこは去ってしまうまでは、ないと同じであり、そして、一度去ってしまうと、もうぜったいに、もどることはできないんだ。」 (200-201ページ)

国民性としてのアイデンティティ喪失を超えて、人間であることの哀しみのようなものが吐露されています。 だからこそ、ジョヴァンニは、汚い部屋で、デイヴィッドとの暮らしを送ることで安全な故郷=homeを築こうと考えたのでしょう。

ぼくはこの部屋を粉砕し、ジョヴァンニに新しいよりよい生活をあたえることを期待されているのだ。その生活は、ただぼく自身だけのものでしかありえなかったが、ジョヴァンニの生活を変えるためには、まずジョヴァンニの部屋の一部になる必要があった。(152ページ)

しかし、結局、ゲイであることを引き受けてジョヴァンニとの暮らしを選ぶことも、またヘラとの結婚生活のどちらも選ぶことのできないデイヴィッドは、この部屋を去っていき、ジョヴァンニは破滅します。

ヘラが帰ってくることに備えて、デイヴィッドは別の女性を口説いて、一夜の関係を結びます。

彼女はとつぜん指をならしたが、どうもそれは軽快なふうにはひびかなかった。「じゃ、いきましょう。きっとあとで後悔するようになると思うけど。でもあなた、ほんとになにか飲むものを買っていかなきゃだめよ。うちには、ほんとになにもないんだから。でも、そうしてもらえば」と彼女は、しばらくしてつけくわえた、「あたしのほうも、まんざら損ばかりというわけでもなさそうね。」
そのとき急に、ぼくのほうがはげしい抵抗を感じ、逡巡した。彼女の顔を見ないようにするために、ぼくは大仰な身ぶりをしてボーイを呼んだ。(172ページ)

寂しい女性の思い、損得で語ることによって自分の欲望や寂しさを隠す言い訳、それを目にして萎える男の気持ちの揺れなど、いかにもリアルな細部です。

ぼくは、このいまわしい情交をとおして、ぼくが軽蔑しているのは彼女、彼女の肉体、ではないということをーーーいとなみが終わって起きあがったとき、ぼくが直視できないのは彼女ではないということを、すくなくとも、彼女に伝えたいと思った。するとふたたび、ぼくは心の奥底のどこかで、ぼくの恐れは極端でなんら根拠がなく、それは実はでっちあげられたひとつの嘘なのだ、ということを感じた。ぼくが恐れていたものは、ぼくの肉体とはまったく関係がない、ということが刻々といっそう明白になってきた。スウはヘラではないのだ。彼女は、ヘラがもどってきたときなにが起こるだろうと恐れるぼくの恐怖を、軽減してくれはしない。むしろ、それを増大させ、ますますリアルなものにするのだ。(175ページ)

女性に対して酷いことをしていると自覚しながらの情事が終わったとたん、嫌気がさした自分を分析しています。ここでいう恐れとは何への恐れでしょうか。女性の肉体への恐れでしょうか、ヘラが帰ってきたときに決断を迫られることでしょうか、ゲイである自分と向き合わなくてはならなくなることでしょうか。あるいはその全部でしょうか。主人公の、非常に屈折した内面の恐れが露わにされています。

そんな屈折を抱えた主人公のもとに、ヘラがスペイン旅行から帰ってきますが、デイヴィッドは、屈託なくヘラに相対することができません。

「わたしは、世話をしたり、食事をさせたり、いじめたり、だましたり、愛したりしてあげたりするものとして、あなたを得たのよーーあなたにがまんしていくことになったのよ。これからさきは、女であることに不平をこぼしながら、楽しくやっていけるわ。でも、わたし、女ではないということだって、こわがったりなんかしないわ。」彼女はぼくの顔を見て、笑った。「そう、ほかのことだってやっていくわ。」彼女は叫んだ。「理知的であることは、やめないつもりよ。本を読んだり、議論をしたり、考えたりというぐあいに、なんでもーーだけど、あなたの考えどおりには考えないように、大いに心がけるわーーそうすれば、あなたはうれしがるでしょうね。だって、きっと、しまいには混乱してしまって、なんだ、けっきょくはせまい女の頭しかもっていないじゃないかって、あなたに思わせることになるんですもの。そして、もし神さまにおぼしめしがあれば、あなたはますます一層わたしを愛してくれて、二人はとても幸福になれるわ。」彼女は、また笑った。「そんなことで、あなたの頭をつかわなくてもいいのよ。わたしにまかせておいてちょうだい。」(217-218ページ)

いわゆる女の勘で、自分が彼氏を失いそうになっていることを察したヘラは、すべてを投げ出してあなたについていくと誓っています。 これに対して、女性の参加者は、こんなこと言う方も言われる方も不快なんじゃないか、と感想を言っていました。べつの参加者は、女性の必死なさまに哀れを誘われる、と述べました。
ヘラは、自由を求めてスペインに単身向かいましたが、おそらく自由がしんどくなり、WASP的な家庭生活に、醒めた頭で入っていこうとしています。 これを打算的で卑屈だととることもできるかもしれませんが、自分のアイデンティティとどう向き合うかを考えた上の、ひとつの積極的な決断ではあるかもしれません。
それにひきかえ、結局は何も選べず、だれも深くは愛せないデイヴィッドのあり方について、もっと話し合いを深めたいところでしたが、残念、時間切れとなってしまいました。
でも、非常に濃密で深い傑作であり、みなさん楽しく読んだようです。