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NUMBER
14
TITLE 供述によるとペレイラは…(白水Uブックス)
AUTHOR アントニオ・タブッキ
DATE 2015年6月14日(日) 14:00-17:00
PLACE 池袋
FEE 700円
NOTE 終了後に「バル・セレス」にて二次会、「HUB」で三次会を開催しました。

about the book

ファシズムの影が忍びよるポルトガル。リスボンの小新聞社の中年文芸主任が、ひと組みの若い男女との出会いによって、思いもかけぬ運命の変転に見舞われる。『インド夜想曲』など夢幻的な作風で名高いイタリアの巨匠タブッキの最高傑作とも言われる小説。

about the author

アントニオ・タブッキ(Antonio Tabucchi, 1943-2012)
イタリアの作家。シエナ大学でポルトガル語および文学の教鞭をとった。ポルトガルをこよなく愛し、とくに作家フェルナンド・ペソアに関しては評論や作品の翻訳を行っている。小説では、『インド夜想曲』でフランスのメディシス賞外国小説部門を、『供述によるとペレイラは…』ではカンピエッロ賞とアリステイオン賞を受賞している。他の作品に、『レクイエム』『フェルナンド・ペソア最後の三日間』など多数ある。

from the facilitator

ずっと読もうと思っていたけれど読んでいない有名作品。持って行ったなかで圧倒的支持を集めてこれが選ばれたのはちょっと意外でした。
200ページ足らずの本ですが、今回はどんな読書会になりますかねー。

【今回選ばれなかった候補作品】

読書会を終えて

物語のはじまり

先年亡くなったイタリアの文豪、タブッキの代表作です。
いきなり、

「供述によると、ペレイラがはじめて彼に会ったのは」(p.3)

という書き出しで始まり、これ一行でただならぬ事件に巻き込まれた男の不穏な物語であることがくっきりと示されます。一行目からどきっとさせて、つかみは完璧です。このあと、何度も何度も「供述によると」は繰り返され、この本を特徴づける文です。 物語は、初老の新聞記者ペレイラが、抑圧的な政府へのレジスタンスを志向する若者と出会うところから始まります。妻を亡くして以来、過去に生きているかのような新聞記者は、死について漠然と考え続けています。

彼の日常についてまわっているこの脂肪のかたまり、汗、階段を上がるときの息切れ、あんなものがどうして、よみがえらなければならないのだ。あれはいやだ、来世にまで、永遠になんて、ぜったいについていてほしくない。(p.4)

そんなペレイラが、死についての関心を共有できると期待した青年は、しかし、意外な答えをします。

まもなく給仕が持ってきたレモネードをひと口ずつ飲みながら、ぺレイラは低い声でたずねた。まるで、だれかにきかれて、ききとがめられるのを怖がっているみたいに。や、すまないな、こんなことを訊いて。ええと、ぼくのたずねたかったのは、うん、きみは死に興味があるのかしら。
モンテイロ・ロッシがにやっと笑ったとき、ぺレイラは一瞬どきりとした、という。そんなこと、ぺレイラさん、モンテイロ・ロッシが大声でいった。ぼくは生きることに興味があるんです。それから、声を小さくしてつづけた。ねえ、ぺレイラさん、死なんて、ぼくはもうたくさんです。

死にとりつかれた(というほど悲劇的な雰囲気はなく、ペレイラは、むしろ緩慢な死を生きているかのようですが)ペレイラが、この青年との出会いによって変わっていく物語です。

変化のはじまり

ペレイラは、最初はこの青年とその恋人マルタに、「巻き込まないでほしい」とうっすら反撥のようなものを感じながらも、無意識のうちに惹かれていきます。

供述によると、ペレイラはどうしてこんなことをいってしまったのか、わからない、という。(p.29)

無意識の動きが、丁寧に追われているのが、この作品の特徴です。
しかしどうして彼は、面倒にわざわざ巻き込まれていくのでしょうか。

そして、ワルツを何曲か、ほとんどうっとりとして踊った。脂肪のついた彼の腹が、いや彼の肉体すべてが、魔法で一瞬のうちに溶け去った気がした。踊りながら、彼はアレグリア広場の色電球のうえの空を見ていて、じぶんがちっちゃくなって、宇宙に溶けこみそうな気分になった。肥満した、ひたいの禿げあがった男が、若い娘と、宇宙の一点の、どこだっていい広場で踊っている。(中略)もしかしたら、だれかが、無限の天文台からぼくたちを見ている。(中略)どうして、ぼくには子供が生まれなかったのだろう。(p.25)

とても美しい場面です。参加された方は、ここを「美しい若い女性と踊れる喜び」と取ったようです。しかし、最後の一行から考えると、マルタとモンテイロ・ロッシのことを、どこかで自分の子供代わりのように感じていることがわかります。
ひとつには、子供が出来なかったペレイラにとって、彼らが子供代わりのように映っているからのようです。

こうしたペレイラの変化は少しずつ積み上げられていき、自分の生き方についての悔恨へと進んでいきます。

私はとくべつに罪を犯したとは思っていない。それでも、私は、罪を悔やみたい気がする、罪を悔やむことへの郷愁を感じるのです。(p.105)

大事なのは、私が疑いはじめたことです。もし、ふたりの若者がただしかったら、と思って。(…)でも、もし彼らがただしいのだったら、私の生き方は無意味だということになるのではないでしょうか。コインブラで勉強したことも、文学がこの世でなによりも大切なものだとずっと信じてきたことも。じぶんの意見をのべることもできないで、そのために十九世紀の短編を載せて甘んじなければならないような、この夕刊紙の文芸面を私が担当していることも、まったく意味がなくなります。そのことを、私は後悔したい気持ちなのです。まるで、私が他人であって、ずっとジャーナリストをやってきたぺレイラではないかのように、なにかを否定しなければならないかのように。(p.107-8)

彼の変化には、肥満治療のためにおとずれた施設の療法士カルトーゾ医師が大きな役割を果たしています。レジスタンスにシンパシーを抱く医師は、ペレイラの中に魂の変化を感じ取り、その変化を促す精神の産婆役をつとめていきます。腹を割って心を打ち明けられる相手を求めていた孤独なペレイラに、カルトーゾは的確な促しを与えていきます。
カルトーゾは、「魂の連合説」をペレイラに語ります。

リボ博士とジャネ博士によると、人格は多数のたましいの連合だというのです。私たちはじぶんのなかに多くのたましいをもっていますからね、それで、たましいの連合は、主導権をもったエゴの統制のもとに、みずからをおくのです。そこまでいうと、カルトーゾ医師はひと息ついてから、つづけた。規範とよばれるもの、すなわち、私たちの存在、あるいは常態は、前提ではなくて、たんに結果であって、たましいの連合においてみずからに課した主導的なエゴに統括されています。もうひとつの、より強い、より力のあるエゴが出てくれば、そのエゴがそれまでの主導的エゴの権力をうばい、代ってその座におさまり、こんどは、そいつがたましいの軍団、いや連合を指揮するのです(…)。そういうと、カルトーゾ博士はこう結んだ。緩慢な侵蝕のあと、ひとつのエゴが、あなたのたましいの連合の主導権をにぎろうとしているのではありませんか、ペレイラさん。でも、あなたにできることは、なにもない、だんだんとこれに従う以外にはね。(p.108-9)

やや難解ですが、ペレイラ自身の言い換えによると、要するにこういうことです。

私たちの人格はひとつではなく、たくさんあって、それが主導的エゴに率いられて共生していると、私は確信するようになったんです。(p.126)

人間にはほんとうは複数の人格があり、普段は一番強い人格が全面化していて、他の人格は隠れている。しかし無意識下では、複数の人格が常に戦いをくりひろげていて、その戦いに別の人格が勝てば、それが新たに主導的人格として前面に出てくる、おおよそこんな説です。
ペレイラの意識の中では、なかば死んだように過去の思い出に生きる人格がこれまで主導権を握っていた。それが、モンテイロ・ロッシという自分の子供のような年の青年に出会うことによって(ロッシが子供代わりであることは重要です)、ペレイラが過去に生きることを止め、未来に顔を向けるようになる。 こうした枠組みに知的な土台を与えるのが、この「連合説」です。学者でもある作家ならではの、知的な装置であるでしょう。
しかし、知的な装置で読者は感動するでしょうか。ふうんと納得はするにせよ、これだけなら図式的な感じだけで終わってしまうような気がします。
このペレイラという男の変化にどうして心から胸を打たれるのか。それは、次のような細部が、丁寧に、ゆっくりと積み上げられているからです。

食前の飲物には、のどがかわいていたのでレモネードをとったが、砂糖は入れないようにいった。(p.136)

どうして自分がこんなことに首をつっこんだのかと自問した。(中略)それで、寝に行くまえに、玄関の間に立ちよって、妻の写真をちょっと見ていこうと考えたのだが、なにもいわずに、ただ愛情をこめて、じゃ、な、と手をふっただけだった、とペレイラは供述している。(p.162)

カルトーゾ医師はこう忠告しています。「その苦しみを、食物や、砂糖をいっぱい入れたレモネードに代行させないように」(p.110)。ペレイラは、少しずつ生活の中の「逃げ」を改めていき、前を向く努力をしています。外食を控え、ロッシには手料理をふるまうようになります(お金の問題だけではないはずです)。そうした暮らしのちいさな変化が丁寧に描きこまれているからこそ、この男がちょっとずつ顔を上げ前を向いていく様子がしっかりと浮かびうがるのでしょう。
こうした手ごたえに支えられるからこそ、次のような陳腐になりかねない言葉も、素直に胸にしみてきます。

過去と付き合うのは、もうおやめなさい。未来と付き合ってごらんなさい。
あたらしい主導的エゴにゆったりした場所をおゆずりなさい。彼がちゃんと生きられるように。今は生まれたがっているのです。おとなになりたがっているのです。(p.142)

未来とつきあう、か。ペレイラがいった。なんてすてきな表現だろう。…彼はとり残された気持になり、じぶんがしんそこ孤独に思えた。それから、ほんとうに孤独なときにこそ、じぶんのなかのたましいの集団に命令する主導的エゴとあい対するときが来ているのだと気づいた。(p.142-3)

今読むべき本

恐縮ですが、部長。ペレイラはおそるおそるいった。ひとつだけ、もうしあげたいことがあります。ポルトガル人はもともとルシタニア人でした。それからローマ人が来たり、ケルト人が来たりしました。そのあとにはアラブ人が来たわけですが、われわれポルトガル人のどこが民族なのでしょう。ポルトガル民族か、部長がいった。わるいが、ペレイラ君、きみの反論はなにやらうさんくさいぞ。われわれはポルトガル民族で、世界を発見したのもわが国民だし、地球一周の大航海をなしとげたのも、ほとんどみなポルトガル民族だった。十六世紀にこれを遂行したときに、われわれはすでにポルトガル人だった。これがわれわれなんだから、そのことをきみはほめればいい、ペレイラ君。(p.55)

この作品は第二次大戦前のポルトガルを舞台に、抑圧の度合いとナショナリズム的な色を強めていく政治および言論と、それに巻き込まれる名もなきジャーナリストの物語です。これはとても遠い話とは思えない状況が、いまの日本でも起きています。我々はペレイラのように、土壇場で暴力や抑圧を否定し一矢報いようとする勇気を持てるでしょうか。
きっと、タブッキは、こうした危機的な政治状況がいつでも、どの国でも起こりうるものと強く感じていたのでしょう。
だからこそ、人間の勇気の証明として、この物語を伝えなくては、という強い思いに駆られて本書を執筆したに違いありません。参加者によるとわずか2週間で書きあげられたそうです。
学究的で観念的な作品の多いタブッキの中で、この本が最高傑作とも言われることが多いのは、内向的な傾向のある作家が、そうした「外部の力」とのせめぎ合いを経ることでものした作品だからかもしれません。自分の思いを重ねるように、タブッキはペレイラにメッセージを語らせています。

どうしてかわからないのだが、ペレイラには、悔恨についての物語であるその短篇が、いずれはだれかが海辺でひろいあげてくれる、手紙を入れたガラス瓶みたいなものに思えたのだ。(p.66)

彼のメッセージが胸にしっかり届いたと実感できる、感動的な読書となりました。文句無しの大傑作で、参加者のみなさんも深く満足されたようでした。

ペレイラは無事か

最後に意見が割れた点が一つありました。

それをかばんに入れると、妻の写真を書棚から出した。きみを連れて行こう、ペレイラは話しかけた。きみが来てくれたほうが、いい。息が楽なように、顔をうえにして、写真をかばんに入れた。(p.188) 

ペレイラは妻の写真を(息がつまらないように上向きにして)携えていくことにします。持って行くか、一瞬躊躇したのではないか、という参加者の指摘がありました。たしかにそんな風に読めます。

さてペレイラは、最後、捕まったのでしょうか。それとも逃げおおせたのでしょうか。その点はどうもはっきりとは書かれていません。会でも意見が割れました。どちらともとれるように思います。ゆっくりなぞ解きをしつつ、改めて再読してみても楽しそうです。

Today's coffee & tea

【お菓子】
Maison romi-unie
【紅茶】
TEAPOND