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coffee &
paperbacks

a little time for reading and chatting with a cup of coffee

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NUMBER
10
TITLE 母なる夜(ハヤカワ文庫SF)
AUTHOR カート・ヴォネガット・ジュニア
DATE 2014年9月20日(土)13:30-16:30
PLACE 代々木区民会館(渋谷区)
FEE 500円
NOTE 今回は飛田茂雄訳のバージョンを読みました。
終了後は代々木Bistriaにて二次会、IBIZAバルにて三次会を開催しました。(自由参加)

about the book

第2次大戦中、ヒトラーの宣伝部員として対米ラジオ放送のキャンペーンを行なった新進劇作家、ハワード・W・キャンベル・ジュニアは、本当に母国アメリカの裏切り者だったのか。戦後15年を経て、ニューヨークはグリニッチヴィレッジで隠遁生活を送るキャンベルの脳裡に去来するものは、真面目一方の会社人間の父、アルコール依存症の母、そして何よりも、美しい女優だった妻ヘルガへの想いだった…鬼才ヴォネガットが、たくまざるユーモアとシニカルなアイロニーに満ちたまなざしで、自伝の名を借りて描く、時代の趨勢に弄ばれた一人の知識人の内なる肖像。

about the author

カート・ヴォネガット(Kurt Vonnegut、1922 - 2007)
小説家、エッセイスト、劇作家。1976年以前はカート・ヴォネガット・ジュニアと名乗る。アメリカ、インディアナポリスにドイツ系移民の子として生まれる。
人類に対する絶望と皮肉と愛情を、シニカルかつユーモラスな筆致で描いた、現代アメリカ文学を代表する作家。代表作には『タイタンの妖女』、『猫のゆりかご』(1963)、『スローターハウス5』(1969)、『チャンピオンたちの朝食』(1973) などがある。ヒューマニストとして知られており、American Humanist Association の名誉会長も務めた。

【今回選ばれなかった候補作品】

読書会を終えて

どこにも足場のない男の、妻への思い

主人公キャンベルは、ナチスのプロパガンダを広める人気ラジオキャスターでありながら、実はアメリカのスパイ。本当の自分を隠し、引き裂かれた自己を生きています。ドイツにもアメリカにも完全には属すことのできない彼のまなざしは妙に無感動でクールなものです。

それは外側に立って歴史を眺める視点であり、小説家ヴォネガットのまなざしの隠喩であると深読みすることもできそうです。しかし、彼が死んだカメラであることを止め、人間らしい熱を見せるシーンがいくつかあります。その一つが、妻ヘルガへの態度です。

そして、人生で意味があるのは愛だけだと信じていたわたしは、なんと熱心な地理学者であったことか。わたしはヘルガのおへその両側で、ひとつのほくろから一本の金色の巻毛まで自転車旅行をする背丈一ミクロンの旅人——顕微鏡でも見えないワンダーフォーゲル——のために、なんとすばらしい地図を描いてやったことか。もしこのイメージが悪趣味ならご容赦願うしかない。だれでも精神の健康を保つためにゲームをしたほうがいい。わたしはただ、われわれ夫婦のゲーム——大人版の≪この子ブタさんは≫——を説明したにすぎない。(72ページ)

他愛のない愛の戯れですが、殺伐とした物語運びのなかで、人間的なぬくもりを感じさせる数少ない場面でもあります。真に祖国といえるものを失った男にとって、ヘルガとの「二人の王国」は、本当に自分の生を実感することのできる安心できる領土だったのでしょう。

しかしそのヘルガを死なせてしまったために、彼は無感動で、みずから行動をとることのない存在になってしまったように思えます。

これは初耳であった。わたしがわたしのヘルガの行方不明について暗号で放送した、しかも自分では無意識のうちに放送したということ——そのことは、なぜか一連の冒険的生活のなかでいちばんわたしの心を動揺させた。(219ページ)

自分を愛するヘルガの妹レシの自殺にもどこか超然としていられるほどに、何が起こっても動揺しないキャンベルは、ヘルガの死とともに感情を心の底にしまいこんでしまったのでしょう。それが、上の場面ではふと顔をだしたと読んでよさそうです。

主人公キャンベルの苦悩

「coffee & paperbacks」読書会では珍しいことに、参加者のほとんどが揃って同じ場面をピックアップしてきました。アイヒマンが登場し、次いでキャンベルが自分はどんな人間かを語る以下の場面は、この本のひとつのクライマックスをなしています。

アイヒマンには善悪を見分ける能力がなかった。いや、善と悪だけでなく、真実と虚偽、希望と絶望、美と醜、思いやりと残酷さ、喜劇と悲劇などは、アイヒマンの頭のなかではまるきり区別なしに処理されていたのだ(199ページ)

わたしの場合は違う。わたしはうそをつくとき、いつもうそだと意識しているし、そのうそを信じた人がどれほど残酷な目にあうか想像できるし、残酷さは悪だということもちゃんと心得ている。わたしには、腎臓結石を知らぬ間に排出することができないのと同じように、無意識のうちにうそをつくことなどできない。

死んだあと、もしまた別の人生が可能であるとするならば、わたしは他人からほんとうの意味でこういわれるような人間として生まれ変わりたい——「父よ、彼をお許しください——彼は自分がなにをしているのかわからないのです」

いまのわたしに関してそんなことは言えない。(200ページ)

ナチズムという極限状況にすっぽり呑みこまれ、善悪の判断を喪失してしまったアイヒマンに対し、スパイであるキャンベルは、何であれ盲目的に受け入れることができない覚めた存在、国体や宗教や思想信条がもたらしてくれる盲信や熱狂から遠く切り離された存在です。おそらく、そういう意味で自分の言葉や振る舞いは徹底的に「意識的」である、と言っています。

自分は何かを盲信する資格をあらかじめ奪われている、何かに熱狂することはできない、それができればこんな楽なことはない、という哀切な苦悩が、「わたしは他人からほんとうの意味でこういわれるような人間として生まれ変わりたい」という一文にあらわれています。

しかし、一方で、自分の罪をどこまでも認識しながら、なぜキャンベルはプロパガンダに加担したのでしょうか。

疑うことを知らぬ信頼というおみごとな奇跡について人々がどう褒めそやそうとご自由だが、わたしはそんな奇跡を生む能力を実に恐ろしいもの、絶対に軽蔑すべきものだと思う。(193ページ)

キャンベルは直接誰かを殺めたわけではありません。しかし、彼の放送を聴いた人々は、ユダヤ人への憎悪を燃やし、多くのユダヤ人を殺したに違いありません。自分の行いがもたらす結果を充分承知していた彼は、そんな自分を軽蔑しています。

ならば、どうしてそれを止めなかったのでしょうか。ここが、この小説の大きな謎です。

おそらくその答えは、自分の愚かなプロパガンダ放送を聴くキャンベルによって、次のように語られているところにありそうです。

暗闇のなかに座ってかつての自分の話を聞くという経験は、べつにショックではなかった。突然冷や汗が流れてきたとか、おかしな状態になったとか言えば、自己弁護の役に立つのかもしれない。しかし、わたしはいつも自分のしていることをちゃんと心得ていた。わたしには、いま自分がやっていることを受け入れながら生きることが常に可能であった。どうして可能であったか? 現代の人類があまねく受けている単純な恩恵——精神分裂症——のおかげである。(214ページ)

人間は、矛盾したことを、それと自覚しながらしでかしすことができる。

卑怯卑劣なことを憎んでいる当人が、同時に自ら卑劣なことに手を染めることができる。こうした人間観こそが、この小説を動かしている核心です。

義父ノトの人間像

キャンベルの義父であるナチスの警察署長ノトは、ロシア軍が目前に迫っても、逃げることをしません。そしてキャンベルは、彼が強制労働者を叱りつけるシーンを目撃しています。これは何を意味しているでしょうか。

「わかるか」とノトはのろまな女に言った。女をわざといじめているわけではなく、のろまはのろまでも、少しは張りのある、少しは役に立つ人間に仕立てようと努力しているのだった。

「わかるか」と彼はもう一度熱を込めて、励ますように、頼み込むように言った。「大事なものはああいうふうに扱うんだぞ」

義父は、暴力的な警察署長ではなく、誠実に職務をこなし、秩序を重んじる立派な人物として描かれています。

このシーンでも、奴隷を乱暴に折檻しているというよりは、丁寧に教え諭している、という印象を受けます。間もなく訪れるに違いない死を前に、なぜこの人物はこうした振る舞いを続けるのでしょうか。

「そんな安っぽい雑誌になぜそれほど上等なルポルタージュが掲載されることになったかは、説明されていなかった。きっとこの雑誌の編集者は、うちの読者なら首吊りそのものの描写を喜んで読む、と確信したのだろう。

私の義父は高さ十センチの足台の上に立たされた。首にはロープが巻かれ、その長い端は若葉が芽ぶいているりんごの太枝を滑車代わりにして強く引っ張られた。つづいて執行人が足台を蹴飛ばす。ノトは首を絞められながら、つま先を地面に触れて踊ることができた。(139ページ)

義父は、どんな状況にあっても、凛として誇りを持って生きる、きちんと仕事を全うして生きる、ということを実践しているように見える、という解釈が出ました。ぎりぎりまで、彼は誇りを失わずに死んでいきます。

しかし、この人物は、必ずしも全肯定されているわけではないようにも見えます。もっと言えば、この人物に限らず、全ての登場人物が、全肯定も全否定もされていないように見えます。

悪とは何か

義父ノトを、何者であるかも碌に知らないままに人々は処刑しました。どんな人間のうちにも悪はある、という厳しい認識がこの物語には流れています。

彼はつづけて言った、「ヘスの絞首刑が終わったあと、おれは帰国するために衣類をまとめた。スーツケースのかぎが壊れてるので、でっかい革ひもでケースを縛った。一時間のうちにまったく同じ仕事を二度やったわけ—— 一度はヘスのため、もう一度はおれのスーツケースのために。どっちも同じような仕事だったな」(39ページ)

ある状況に置かれた時、人間は善の感覚も悪の感覚も麻痺してしまう。自分の行いがもたらす結果は忘れられ、単なる「仕事」になってしまう。その点で、上のイスラエルの死刑執行吏がしたことと、アイヒマンがしたことを、ヴォネガットは区別していません。

さきほどの義父ノトも、自分の行いの結果を考えなかったという点でおそらく全肯定されていません。「ノトの主要な誤りは…非行や犯罪の容疑者を、すでに狂気に陥っていた裁判機構や刑罰組織に引き渡したことである」(138ページ)と、ヴォネガットは書き添えることを忘れてはいません。

このようにこの小説では一貫して、悪は全面的にだれかの中にあるわけではない、という立場が貫かれています。だれのうちにも悪があり、善がある。そのことをヴォネガットは見つめています。

キャンベルをしつこく狙い回し、「おまえはまじりっけ無しの悪だ」と言いつのるオヘアに対し、キャンベルは珍しく暴力を振るいます。

…ほんとうの悪はどこにある? 悪とはあらゆる人間のなかに潜む大きな部分——際限なしに憎み、神を味方につけて憎みたがる部分のことだ。どんな人間にも、いろんな醜さにえらく魅力を感じる部分があるものだが、その部分こそ悪なんだ」

「悪とは、愚か者の中なかにあって…人を罰し、人を中傷し、喜んで戦争をおっぱじめる部分のことさ」(292ページ)

自分の落ちぶれたことをキャンベルのせいにして、キャンベルをひたすら憎む、そして自分は一方的に正しいと思いこもうとするルサンチマンこそが、悪の正体であり、戦争の原因だ、とキャンベルは怒りを爆発させます。ここに、ヴォネガットの思いがこめられているのでしょう。

キャンベルの死

注意して読んでいくと、主人公は、自発的に逃亡していたわけではないことに気づかされます。運命に流されるように、ただ運ばれていっただけです。ところが、最後の場面、自ら逃げることを迫られると、逮捕されることを求め、さらに投獄されて自らの無罪の可能性を知ると、自殺してしまいます。

…それまで、生命も意味もない長年月にわたってわたしを動かしてきたもの、それはもっぱら好奇心であった。

いまやそれさえ燃え尽きていた。(270ページ)

妻を失って以来、カメラとして世界を映し出すだけの存在で、キャンベルは「生きて」いません。だからこそ、自ら主体的に生きることを迫られたとき、生きることを放棄したのでしょうか。

あるいは、逮捕され裁判にかけられることによって、自らの意味を回復できると考えたのでしょうか。

生きる意味や目的を失った、どこにも帰属しない男の深いニヒリズムとともに、謎を残して物語は幕を閉じます。

黒いユーモアと、魅力的な細部

この本を開くと、読者はその重くシリアスな物語と、ブラックなユーモアの絶妙なミックスに圧倒されます。

新しい隊員の最初の任務は、前任者の遺体を処分することであった。(31ページ)

笑わせたくて書いている(はずの)この文章も、笑っていいのか分からず、とまどってしまいます。しかし、このユーモア感覚があるからこそ、重く苦いこの小説を読み継ぐことができるような気がします。

…それに、外見は教科書そっくりに作ってある重さ四キロ近くの重量物を宣伝するパンフである。

その重量物は、授業の合い間に生徒がバーベル代わりに持ち上げて体力をつける道具であった。その宣伝パンフによれば、アメリカの児童は世界のほとんどあらゆる国の児童よりも体力が劣っていた。(88ページ)

ヴォネガットらしい可笑しな場面がところどころに「箸休め」のようにあって、読者は一息つけるようになっています。このあたりが、深刻一辺倒の文学とはちょっと違う、流行作家ならではの味付けかもしれません。

ユーモアというのではありませんが、爆撃で破壊された家を訪れたときの次の場面も、本筋には関係がないものの印象的な美しい描写です。いわゆる「歴史」に残らない戦争のこうした細部を語れるという小説の魅力を実感させてくれるところでもあります。

どちらの場合も、柱や板がずたずたに裂けた階段の上で大空を仰ぐ瞬間はすばらしかった。(280ページ)

独特のセンスでもって極めて重いテーマに挑んだ、一筋縄では行かない作品、という読後感を残した小説でした。

限られた時間では、まだまだ語りきれないことがたくさん残りましたが、発見の多い読書会になりました。

Today's coffee & tea

【お菓子】
GIOTTO ジョトォの焼き菓子
【紅茶】
TEAPOND