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NUMBER
9
TITLE フラニーとズーイ(新潮文庫)
AUTHOR サリンジャー
DATE 2014年7月26日(土) 15:30-18:30
PLACE 桜美林大学四谷キャンパス3F
FEE 500円
NOTE 終了後に四谷のサルヴァトーレ クオモにて二次会、 YOTSUYA BREWERYにて三次会を開催しました。(自由参加)

about the book

『フラニーとズーイ』は、ふたつの独立した物語、「フラニー」(1955年)「ズーイ」(1957年)がまとめられた連作小説。
「フラニー」 晩秋の駅で、女子大生のガールフレンド、フラニーの到着を待つ大学生のレーン。ふたりは大学対校のフットボールの試合を観戦した後に、週末を一緒に過ごす計画を立ている。さっそく気の利いたレストランで昼食を取るが、自己顕示やスノッブ的な振舞いに何の疑問も持たないエリートのレーンに対し、若者らしい潔癖さと過剰な自意識に悩み、演劇をやめようとしているフラニーとの会話はすれ違う。やがて、フラニーは耐えきれずにテーブルを離れ、店のトイレに駆け込み、バッグの中から「巡礼の道」という本を取り出すが…。
「ズーイ」 週末の出来事から二日後の朝。ニューヨークの自宅に戻ったフラニーは、そのまま居間の寝椅子に寝込んでしまう。幼い頃から二人の兄から植え付けられた求道的な宗教哲学や東洋思想と、相反するエゴが幅を利かせる現実世界の板挟みに遭うフラニーは「巡礼の道」に出てくる宗教的な祈りによって救いを求める。心配した母親のベッシーは、5歳年上の兄ズーイに助けを求める。自らも兄たちの影響を強く受けているズーイは妹の説得を試みるが、「言葉の曲芸飛行士」である彼の饒舌さは時に脱線を繰り返し、ますますフラニーを混乱させる。ついには死んだ兄シーモアに会いたいと言い出すフラニーに対し、話を切り上げたズーイは部屋を出、二人の兄が使っていた書斎に足を踏み入れる…。

about the author

ジェローム・デイヴィッド・サリンジャー(Jerome David Salinger, 1919-2010)

ニューヨーク市マンハッタン生まれ。1950年秋発表の『ライ麦畑でつかまえて』が大きな反響を呼んだ伝説の作家。同世代の若者から圧倒的な人気を誇り、2007年までに全世界で6000万部以上の売り上げを記録。現在でも毎年50万部が売れているという。1953年『ナイン・ストーリーズ』、1961年『フラニーとズーイー』、1965年『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』。1965年に『ハプワース16、1924年』を発表したのを最後に1冊の新刊も発表することはなかった。晩年は滅多に人前に出ることもなく、2メートルの塀で屋敷の回りを囲ませその中で生活をしていた。2010年1月27日、自宅にて老衰のため死去。

from the facilitator

古い訳の『フラニーとゾーイー』をなんどか挫折。村上春樹の新訳でみんなと読みたいと思います。

【今回選ばれなかった候補作品】

読書会を終えて

ふたつの文体

この物語は、短い序章のような「フラニー」の章と、その数年後に書かれた本論「ズーイ」が合わさって一冊をなしています。

「フラニー」の部分を読んでいくと、読者は、その端正な文章に惚れ惚れとさせられます。

それから唐突に、きわめて素早く、彼女は七つか八つある仕切りの、いちばん奥のいちばん目立たないところに入った(幸運なことに硬貨は不要だった)。そしてドアを閉め、いささか苦労した末にボルトをロックの位置に差し込んだ。今身を置いているのがどういう場所なのかよくわかっていないような素振りで、彼女はそこに座り込んだ。そして自分を少しでも小さな、よりコンパクトな単体にしようとするかのように、両膝をぴったりと合わせた。それから両手を縦にして目にあて、付け根の部分をぎゅっと強く押しつけた。まるで視神経を麻痺させて、すべてのイメージを虚無に似た暗闇に溺れさせようとするみたいに。まっすぐ伸ばされた彼女の指は、震えているにもかかわらず、あるいは震えているからこそなのか、不思議なほど優雅に、美しく見えた。彼女はその緊張した、胎児のようにも見える姿勢をしばらく保っていた。それからがっくりと身を崩し、たっぷり五分間泣いた。(39-40ページ)

英文とつき合わせて読んできた参加者もいますが、とにかく、絵がありありと浮かぶような、シンプルで美しい文章、さらに訳文です。
ところが、後半の「ズーイ」の章に入ると、少し様子が違ってきます。

彼女は在宅時にふだん着用する衣服を身につけていた。息子のバディー(彼は作家であり、それはとりもなおさず、誰あろうカフカが述べたごとく、礼節をわきまえた人間ではないことを意味する)が「死亡届前のお仕着せ」と呼んだところのものだ。(109-110ページ)

「死亡届前のお仕着せ」とは、いつ棺桶につめても問題がないような格好、ということでしょうか。非常に凝った文体で、一読意味がつかめないところも多々出てきます。下手に書かれているわけではなく、センテンスが長く、修飾や比喩が凝っているために何を指しているのかがつかみにくいのです。
また、主人公のズーイも、文体に輪をかけて饒舌を極めています。

「『四つの偉大なる誓願』だよ」と彼は言った。そして憎々しげに目を閉じた。「『いかに無数の人がいようと、彼らを救うことを誓います。いかに無尽蔵に情念が存在しようと、それらを消滅させることを誓います。いかにダルマ(仏法)が広汎なものであれ、それを修得することを誓います。いかに仏陀の真理が比類なきものであれ、それを会得することを誓います』。やっほー、ほら、ちゃんとできたぜ。コーチ。僕をゲームに出してください」(153ページ)

こうした、才気ばしったおしゃべりが、延々と展開されます。この高速回転のおしゃべりの過剰さが、どうしても体質的に受け付けないというひともいるでしょう。好みの分かれるところかもしれません。
静かなモノクロの短編映画のような「フラニー」に比して、いきなりカラフルで騒がしい「ズーイ」。これはもちろん意図的なものだと考えられます。

この物語の宗教くささ

この物語のもう一つの大きなネックが、その宗教くささです。

シーモアがかつて僕に――よりによってマンハッタンを横断するバスの中でだぜ――こう言ったことがある。すべてのまっとうな宗教的探求は差違を、目くらましのもたらす差違を忘却することへと通じていなくてはならないんだと。それはたとえば少年と少女の差違であり、動物と石との差違であり、昼と夜との差違であり、熱さと冷たさの差違だ。そのことが唐突に、肉売り場のカウンターで僕の心をはしっと打ったんだ。(101ページ)

この本にはサリンジャーの宗教論、とくに仏教論が随所に盛り込まれてはいますが、それは、今の(さらに、日本人の)目からすると、少々乱暴に感じる部分もあります。

小さなフラニーは聖書に愛想を尽かして、ブッダ方面に直行してしまった。(237ページ)

フラニーはいろんな宗教の「いいとこどり」をしているようにも見えます。それをズーイは戒めています。

僕はキリストをまったく違った光の中で見ることができる。彼のファナティシズム(狂信性)がいかに非健康的であったか。(128ページ)

もしおまえがイエスの祈りを唱えるなら、おまえは少なくともそれをイエスに向かって唱えなくちゃいけないんだよ。聖フランチェスコやシーモアやハイジのおじいさんをひとまとめにしたものに向かってじゃなくてね。イエスを頭に描き、彼だけを思い浮かべて、お祈りは口にされなくちゃならない。そして彼の姿は、おまえがこうあってほしいと思う彼の姿じゃなく、ありのままのものじゃなくちゃならない。(243ページ)

ズーイは、優しい癒しの存在とイエスを捉えるような理解に苛立ちを示しています。これはサリンジャーが、理解の中途半端さを自分自身に戒めているかのようでもあります。
このようにその聖書解釈や仏教理解が、どうしてもご都合主義のように映る(そしてそれを自分で突っ込む)場面が散見されます。

ただ一方で、サリンジャーに限らず、当時のカウンターカルチャーとして、宗教とくに神秘思想や仏教への接近が切実な意味を持っていただろうということは、訳者も(別刷りの)解説で述べています。
サリンジャーの宗教への接近、さらには終わりなき逃走を描いたケルアックの『オン・ザ・ロード』が、60年代のバロウズやギンズバーグやボウルズなどのドラッグ文学を準備し、さらにその延長上に、70年代のピンチョンや、サイバーパンクSFを準備したのかもしれません。そのような流れでアメリカ文学を読んでみると、サリンジャーの占める歴史的な大きさが見えてきそうです。

さて、そもそもサリンジャーはどうして、宗教へのアプローチを余儀なくされたのでしょうか。
同じサリンジャーが10年前に書いた『キャッチャー・イン・ザ・ライ』には、宗教のテーマは(少なくとも表立った語りとしては)出てきません。
しかし、どちらの小説も、「イノセンス(無垢)を守ること」というテーマが重要な位置を占めています。 イノセンスは、現実生活の中では不可避的に損なわれ奪われていきます。それを本当に守ろうとするとき、人間は、現実の価値を捨て去り、社会から外れてひきこもるしかない。現世を否定し、超越的な価値を優位に置くほかない。そのようにサリンジャーは思い詰め、宗教に接近していったのではないでしょうか。
しかし、この物語では、そうした宗教へのひきこもりではなく、ある種の現実への軟着陸が試みられます。

「世の中には素敵なことがちゃんとあるんだ。紛れもなく素敵なことがね。なのに僕らはみんな愚かにも、どんどん脇道に逸れていく。そしていつもいつもいつも、まわりで起こるすべてのものごとを僕らのくだらないちっぽけなエゴに引き寄せちまうんだ」 (219ページ)

でももし君が宗教的な生活を目指しているのであれば、君は今すぐ知るべきだ。この家族の中で今も続けられている宗教的行為を、君はひとつ残らず見逃してしまっているってことを。(282ページ)

聖性はほかでもない今ここ、日常のいたるところに顕現している、という認識が語られています。
これが、「太ったおばさん」がみなキリストである、というラストシーンにも直結しています。こうした解決のなかに、この物語は救いと回復を見出しています。
ところが、現実のサリンジャーは、小さな村にひきこもり、以後、ほとんど作品を発表することもなく、社会との接点を失っていったようです。これを、どう考えたらいいのでしょうか。そこが、この物語にぬぐいがたく付きまとう「釈然としなさ」の遠因になっているような気がします。

小説をドライブする文章力

まるでサリンジャー自身の脳内で展開される宗教的な対話を聴かされるかのような趣があるこの本が、ぎりぎりのところで面白く読めるとしたら(絶大な読者の支持を集めたのですから、ぎりぎりどころではないかもしれませんが)、それはやはり、サリンジャーの文章の力です。

彼女は息子がソックスを履くところを眺めていた。その顔には傷つけられたという思いと、洗濯したソックスに穴が開いていないかどうか長い歳月にわたって点検してきた人間の抑えがたい関心とが入り混じった表情が浮かんでいた。(169ページ)

「母親というもの」がありありと活写されています。シリアスで鋭い人間観察と突き放した描写があり、かつ、どこか滑稽で、おかしみを含んでいます。
冴えた描写やセリフは他にもたくさんあります。

もう出てってくれよ、ベッシー。ここで僕に平和なひとときを送らせてくれ。気分転換にエレベーターにでも乗ってきたらどうだい?(155ページ)

イエスの祈りを追求していくことによって、君だって何かしらの財宝を積み上げようとしているとは思わないのか?(212ページ)

1950年代当時の風俗もいきいきと描きだされています。

当世風に短くカットされた彼女の髪は、寝起きでもほとんど乱れはなかった。その髪は――見るものにとってまことに喜ばしいことに――真ん中に分け目をつけられていた。(181ページ)

シックラーの女性用化粧室は、ダイニング・ルーム本体とほぼ同じくらいの広さがあった。(39ページ)

グラス家の三台のラジオのある部屋の描写(172ページ)なども、鮮やかに絵が浮かぶようで、このあたり、文豪の面目躍如です。

青春期に読むべき本

宗教くささを超えてこの物語に「ノレる」かどうか、これはひとつにはいつ読んだか、年齢的なものが大きいかもしれません。参加者の一人は、バブルの時代真っ盛り、苛立ちを抱えた20代にこの本を読み、深い影響を受けたといいます。世の中の上滑りで陳腐な価値観に嫌悪を抱き、同時にそんな自分の凡庸さにも嫌悪を抱く、いたたまれない青春の気分に、この小説はぴったりきます。一方で、「読んでいてその当時を思い出して痛過ぎる」と感じた参加者もいました。

もうこれくらいにしよう。演技をするんだ、ザカリー・マーティン・グラス。いつでもどこでもおまえが望むままに、そうしなくてはならないとおまえが感じるのであれば。しかしやるからには、全力を尽くしてやってくれ。もしおまえが舞台で、何かしら美しいことを、何かしら名もなく喜ばしいことを、そして演技的な巧みさという範囲を越えた(超えた)何かしらを見せてくれるなら、Sと僕は借り物のタキシードに身を包み、飾り石のついた帽子をかぶり、キンギョソウの花束を手に、神妙な顔で楽屋の戸口を訪れよう。(103ページ)

「演技をするんだ」というくだりは、奇しくも訳者・村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』の「踊るんだよ。音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ」というフレーズにみごとに呼応しています。 現実と自分のあさはかさを引きうけつつ、それでもひたすらステップを踏んでいきていくことを高らかにうたったこの物語は、確かに力強いメッセージを持っています。

Today's coffee & tea

【お菓子】
「ヨロイヅカファーム トーキョー」のシャーベット、「和菓子司いづみや」の黒糖わらび餅やプリン、「コージーコーナー」のクッキーなど
【お茶】
おーいお茶