coffee &
paperbacks

a little time for reading and chatting with a cup of coffee

coffee & paperbacks は、同じ小説を読んできてあれこれおしゃべりをする、誰でも参加歓迎ののんびりとした読書会です。

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NUMBER
4
TITLE 月と六ペンス(新潮文庫)
AUTHOR サマセット・モーム
DATE 2013年9月28日(土) 13:30-17:00
PLACE 山手234番館
FEE 300円
(会場費と、お茶お菓子代として。)
NOTE  

あらすじ

語り手の作家は、銀行マンとその妻と近づきになる。夫ストリックランドは篤実な男だが凡庸で退屈。ところがある日、夫が家を出たと妻から相談される。愛人と駆け落ちしたと考える妻に懇願され、主人公は夫の説得のためパリに赴く。
ところがかの地で目にしたのは、狭くみすぼらしい部屋に独り暮らす男だった。男は絵を書きたいとの衝動にとらわれ、絵を売ることすらなくひたすら孤独と窮乏のうちに創作をつづけていた。

絵を描くこと以外にいっさいの興味を失った男の恐るべき振る舞いや、売れっ子ではあるが才能はない滑稽な画家との交流、その妻との不倫や女の自殺、その後のタヒチ出奔、ハンセン氏病による死など、異様で波乱に満ちたその生涯が語られていく。

画家ゴーギャンの生涯をもとにした物語といわれているが、現実の伝記とはかなりの違いもある。

about the author

ウィリアム・サマセット・モーム(William Somerset Maugham、1874―1965)。
パリ生まれのイギリスの小説家、劇作家。
10歳で孤児となり、渡英。
第1次大戦では軍医、諜報部員として従軍。
1919年に『月と六ペンス』で注目され、人気作家に。
分かりやすく面白い作風で、エンタメ小説のハシリともいわれる。

代表作に、『人間の絆』や短編「」「赤毛」、戯曲「おえら方」など。
ロシア革命時は、イギリス情報局秘密情報部に所属したスパイであり、その体験にもとづく小説「アシェンデン」がある。

from the facilitator

本棚を漁れば新潮文庫と岩波文庫の2冊が積読。
何度か気になって読みかけては止めた名作です。今度こそは!

今回の会場について

外国人墓地のそばにあります。
朝香吉蔵の設計により、1927年頃に建築された外国人向けのアパートメントハウスで、横浜市に現存する数少ない遺構の一つ。
戦後の米軍による接収を経て、1980年頃までアパートメントとして使用された洋館です。
前回の「神奈川近代文学館」からも、徒歩10分くらい。
このあたりは、保存のよい洋館がたくさんあって、随時見学できるようになっています。
またこの近くに、「ジェラールの水場」という遺構があり、横浜の隠れ観光スポットになっています。

こちらもどうぞ:山手 [横浜の観光・旅行] All About

読書会を終えて

鋭く厳しい人間観察

この物語は、突如として生活と家族をなげうって画家になった平凡な株式トレーダーの伝記を、回想と伝聞によって執筆している筆者が語るという形式で進みますが、一読感じるのは、その鋭く、皮肉な人間観察です。

彼女の悲しみの中には、踏み躙られた愛情の苦悩と一緒に、傷ついた虚栄心のうずき(それがまた若かった僕には、ひどく醜いものに思えたのだ)が混じっているような気がして、すっかり分からなくなってしまうのだった。人間の心というものが、いかに矛盾に充ちたものであるかということ、誠実な人間の中にさえ、いかに多くの気取りがあり、高潔な精神の中にも、いかに多くの不純があり、かと思えば、背徳者の中にさえ、いかに多くの善意があるかということなど、まだそのころの僕には、わからなかったのである。(74 旧版56)

夫に出奔された妻の態度に欺瞞を見る筆者のまなざしは、「若かった僕」ゆえの純粋さと無垢さのゆえかもしれません。この物語は、無垢「だった」私の回想による記述、つまり「汚れっちまった悲しみ」の物語であることがひとつのポイントになっています。

「もしあの人が本当に困っているのでしたら、私、少しくらいは助けてやってもようございますわ。あなたのところまでお金をお送りしますから、必要に応じて、少しずつ渡してやっていただけますわねえ」。
「ご好意はよく分かりますが」と、僕は言った。
この申し出が、好意から出たものでないことはわかっていた。不幸が人間を美しくするというのは、嘘である。幸福がそうすることは、時にある。だが、不幸は、多くの場合、人をけちな、執念深い人間にするばかりだ。(124 旧94)

愛情や親切の裏に隠れた復讐心を見逃さない視線は、とりわけ女性にたいして厳しいものがあるように見えます。それはモームが同性愛者だったこととも関係しているのかもしれません。

個性的な脇役とサイドストーリー

この物語には、主人公ストリックランド以外にも魅力的な人物たちが数多く登場して読者を飽きさせませんが、とりわけ魅力的なのがへっぽこ画家、ダーク・ストルーブです。
誠意と善意の塊のようなこの人物は、何をしても滑稽です。

だが悲しいことに、それらはいつも滑稽至極な話ばかりで、悲愴であればあるほど、聞き手の方では噴き出したくなるのであった。(旧97)

親切を尽したストリックランドに妻を奪われ失意のどん底にある彼の顔色はバラ色で、苦悩に苛まれる彼の体型は前にも増してまるまると太っています。どこか存在自体がチグハグです。
こんな人物は私たちの周りにもいそうです。まじめを突き詰めると滑稽になってしまうのはどうしてなのでしょうか。

ストルーブの妻はストリックランドと出奔(正確にはストルーブが出て行く)したあげく自殺に追い込まれるのですが、まるで明日も同じ暮らしが続いていくかのように、きちんと台所の後片付けを済ませて死の床につくその様子は、きわめて冷徹に描かれていて衝撃的です。

それでも彼女は、いつもと同じように食後の洗い物まですませたのかと思うと、彼は、おそろしい身慄いのようなものを感じた。(旧196)

故郷・楽園幻想・植民地主義

妻に死なれた彼は郷里のオランダの村に帰ることを決意します。時間がとまったようなその村の描写は、とても静かで、印象的です。

文明の進歩からポツンと取残された、小さなこの町では、一切何事が起こるでもなく、一年一年が経って行って、やがて死が、それも友達のように、一生ただ働きつづけて来た人々の上に、休息をもって訪れて来る。(旧191)

誕生から最期の日まですべてが運命づけられたような、死の気配が濃厚に漂う村の風景は、どこか悲しく恐い感じがします。

「故郷」についての描写は他所にもいくつか出てきます。たとえば筆者の友人で将来を嘱望されていた医者が、旅行で初めて訪れた異国の地で突然永住を決意し、約束された成功を捨て貧しい暮らしをしながらなお人生に満足している姿は印象的です。ストリックランド自身も、ある日突然、絵画にめざめてそれまでの生活を捨て、やがてタヒチで「本当の」暮らしを見いだします。

いったい人間の中には、ちゃんとはじめから故郷を決められて生れて来るものがあると、そんな風に僕は考えている。たとえ何かの拍子で、まるで別の環境の中へ送りだされるということがあっても、彼等はたえず、まだ知らない故郷に対してノスタルジアを感じている。 (旧266)

知らない故郷へのノスタルジアという言葉は、ひとつのキーワードかもしれません。それは、ヨーロッパ人のもつ、楽園幻想とかかわりがあるかもしれません。
ストリックランドは自然に満ちたタヒチ(未開)に行って芸術を開花させるのですが、こういう展開は、ある時代のヨーロッパ人の共通幻想だったかもしれません。
この物語では、そのテーマが、わりと無邪気に扱われています。ポストコロニアル思想を経た現在の目からすると、ナイーブに映ることは否めません。
たとえば、

「彼を最も喜ばせたのは、ブランシュのひどく綺麗好きなことだった」(260 )

というくだりについて、ストリックランド夫人とブランシュが整頓好きであるのに対して、タヒチでのストリックランドの妻はむしろ「不潔」であるように描かれています。これは、西洋=文明、タヒチ=野蛮という対比ではないか、という女性参加者からの鋭い意見がありました。

「原住民とあれしたことなんて絶対にない」(367 旧275)

など、露骨に差別丸出しの部分も多くみられます。とりわけ旧版では、この部分は「土人なんかとあれしたこと絶対にない」となっています。こりゃさすがにまずいと思って、新版化の際に変えたのでしょうね。

芸術観

この作品では、ゴーギャン=ストリックランドに仮託されて、モームの芸術観が吐露されています。
ストリックランドは、書いた絵そのものには興味を示しません。

しかも彼のなかに燃える情熱――そうだ、それは単なる絵ではない、その証拠に、彼には、ほとんど一枚として完成作はなかった――を吐き出してしまうと、もうそのことは、全く忘れてしまっている。でき上がった仕事に満足することは決してない。心を?んでいる幻に比べては、そんなものは、なんの価値もないのである。(旧115)

「だが、なぜ奴にくれてしまったんだい?」
「描き上げてしまったからさ。もう僕にはなんの用もなかったんだ」(旧208)

絵(芸術)とは、形(ことば)にならない体験そのものに形を与える行為であるとするならば、できてしまったものには大して意味がありません。できた形の外に、常に形にならないものがこぼれ落ち続けていくからです。
これは、そもそも近づき得ないものに、なんとか近づこうとする無謀な行いであり、美に殉じようとするものは、現実の生活において破滅する運命にあります。

ところが、あのストリックランドを捉えていた情熱は、いわば美の創造という情熱だった。それは彼に一刻として平安を与えない。絶えまなくあちこち揺すぶりつづけていたのだ。いわば神のようなノスタルジアに付き纏われた、永遠の巡礼だったとでもいおうか。彼のうちなる美の鬼は、冷酷無比だった。世の中には、真理を求める激しさのあまり、目的を達することが、かえって彼らの拠って立つ世界を、その根底から覆してしまうような結果になる、そういった人間がいるものだ、ストリックランドがそれだった。ただ彼の場合は、美が真理に代っていただけのことだ。私は彼に対して、ただ深い深い憐みを感じるだけだ。(388 旧290)

この物語の興味のひとつは、そうした美(絵)をどうやってことばで表現してみせるか、というところにあるでしょう。
作家モームは、腕のみせどころとばかり、鮮やかに文章で絵を描いています。

奇怪といえば、実に奇怪きわまるものだった。世界の創造、エデンの楽園、そしてアダムとイヴ?とでもいったらいいだろうかな? ――とにかく男、女、いっさいの人間の肉体美への賛歌、あるいはまた荘厳で、非情で、美しくて、そのくせ残忍な自然に対する礼賛でもあった。ほとんど恐ろしいまでに、空間の無限と、時間の悠久とを思わせるものだった。彼は、私が毎日身近に見ているいろんな植物、たとえば椰子だとか、榕樹だとか、火焔木だとか、アリゲーター梨だとか、そういったものも描いていたが、私は、彼がそれらを描いていたばっかりに、その後は同じ植物を見ても、見る眼がすっかり変わってしまった。なにかそれらの中に、精霊と神秘がひそんでいて、それは今一息で捉えたかと思うと、たちまちするりと逃げられてしまう。なるほど、色そのものは、私たちが毎日見るのと同じなのだが、それでいてちがうのだ。すべてが独自の意味を帯びてくる。同じことは、男女の裸体の群像についても言えた。土なる人間であることには変りない。が、そのくせ地上的なものからは完全に離れている。彼らが創られた元の土塊のあるものは、どこまでも残している。それでいて同時に、それ神にさえ近いのだ。そこには人間の真裸な原始的本能の姿があった。そして人はそれを恐れた。つまり、自分自身をそこに見たからだったのだ」(416 旧311)

抽象的なことを言わず、そもそも絵を文章で彷彿させるという離れ業に挑んでいます。
「最高の通俗作家」と呼ばれたモームは、ある程度それに成功している、ということで参加者の意見が一致しました。
ただ、若干筆に力が入り過ぎていて、ちょっとおなかがもたれる、という意見も出ました。

長い物語にもかかわらず、最初の数十ページさえ乗り切ればあとは楽しく読める。難しいテーマに、物語の面白さを加えることで楽しい読み物として成立させた、なかなかの作品でした。